Vol.26
アメカジのレジェンド、
中曽根信一さんと
パパスの歴史秘話!
80年代、アメカジと
DCブランドは交錯した
今回は1980〜90年代のファッションシーンをリードしたセレクトショップ「バックドロップ」で創成期における中心メンバーとして活躍し、あの「ラブラドールレトリバー」の創設者としても知られている、中曽根信一さんが登場! インポートアメカジ業界の伝説的人物とパパスとの、意外な関係に迫りました。
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DCとアメカジ文化が交錯した時代

1980〜90年代の渋谷〜原宿エリアで花開き、今や世界中から注目されるアメカジカルチャーの、中心人物となったのが中曽根信一さんでした。中曽根さんが火付け役になりブレイクしたブランドは数知れず。その出会いと冒険に溢れた波瀾万丈の半生は、一冊の本では書き足りません!
――パパスのようなデザイナーズブランドの潮流から生まれたブランドと、中曽根さんのような方との間に交流があったとは意外なんですが、今日はそのあたりのお話を聞かせてください!
中曽根 もともとぼくが最初に勤めた「バックドロップ」って、古着屋になる前はジーンズをつくって売っていたんです。ボロ屋に落ちてるウエス用のジーンズ生地をきれいに洗ってパッチワークにして、原宿や吉祥寺のお店に卸していたんですが、それを着てくれていたのが『俺たちの旅』(1975年)の中村雅俊さん。
――伝説のドラマですね!
中曽根 実はぼく、あのドラマに憧れて上京したんですよ。だからその後に放送された〝俺たちシリーズ〟の中村さんの衣装は、全部ぼくがやらせてもらいました。


カルティエの「LOVEブレスレット」やロレックスの「バブルバック」、カレッジリングなど、小物選びひとつとっても憧れてしまう、中曽根さんのスタイル。
――スタイリストということですか?
中曽根 当時はスタイリストなんて職業はないから、中村さんやそのお手伝いさんと直接話し合いながら、衣装を決めていきました。そんなふうにして、「バックドロップ」は1977年くらいから古着をファッションとして売っていたから、「POPEYE」の編集部やマガジンハウスの淀川美代子さん、淀川さんが紹介してくれたデザイナーの金子功先生・・・みたいな方々が面白がってくれて、様々な雑誌の企画に協力させてもらっていたんですよ。
――そこでDCカルチャーとの接点ができるんですね!
中曽根 淀川さんとは、最後まで仲良くさせていただきましたね。その後(1980年代半ば)ぼくはとある社内事情によって悩みを抱えながら働いていたのですが、そんなときにマドモアゼルノンノンに勤めていた友人から、これからビギはどんどんメンズをやっていくからおいでよ、と誘われたんです。実は当時よく買ってくれていたお客様がビギの専務で、しかも淀川さんの部下だった友人の女性の旦那さんだったという偶然も重なって、同時に誘われました。つまり、ある意味周囲から包囲されるようなかたちで(笑)、1986年からぼくはビギで働くことになるんです。当時から自分のお店を始めたいと思っていたから、2年契約にしてもらったけどね。
パパスと中曽根さんの意外な接点!

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――なんと! パパスのルーツであるビギで働いておられたんですね! それは意外すぎます。ちなみに職種はなんだったんですか?
中曽根 デザイナーです。メンズビギじゃなくて、ビギから初めて登場したメンズブランドのインスパイアですね。当時(1986年頃)のビギグループはディグレースからは荒牧太郎先生のパパスが、ピンクハウスからは金子功先生のカールヘルムが立ち上がるなど、いろんなメンズブランドが生まれるタイミングだったんですよ。ただ、ぼくとしては断然パパスが好きでした。荒牧太郎さんのスタイルに憧れていたから。短パンにゴム草履を履いてるのに、時計はパテック・フィリップ。いつも丸メガネを鼻にひっかけてさ。ラフなんだけど、お金持ちに見えるんですよね。
――アメカジ畑の本格志向だった中曽根さんをも唸らせるセンスだったわけですね。
中曽根 ファッションだけじゃなくて人間的にもすごくラフな方だったから、ぼくには合ったんでしょうね。そういえば九州のショップのクリスマスパーティにビギのデザイナーみんなで行った時、トイレの中で話しかけてくれたことをよく覚えています。「俺、飛行機嫌いだから電車で来たんだよ」って言ってましたね。あんな偉い人でも電車で来るんだって(笑)。

――1980年代半ばといえばDCブランドの全盛期ですが、中曽根さんもそういうモードっぽい服を着られていたんですか?
中曽根 絶対着なかったです(笑)。当時はキース・ヘリングのTシャツとかを着ていましたから。ただ、あの頃ビギをはじめとするDCブランドでも爆発的に売れていた、スタジャンをつくったことはありますよ。「バックドロップ」時代のスタジャンを思い出しながらね。刺繍は桐生の工場だったんですが、アメリカのスタジャンはこうだと言ってもなかなか通じないものだから、いつもビギのクルマで桐生まで通っていましたね。アメリカのスタジャンはフェルトの厚さもニードルパンチの高さも、国産のものとは全く違うんですよ。
――当時のインポート好きにとっては、国産のスタジャンはやっぱりNGだったわけですよね(笑)?
中曽根 それはそうです。だってぼくらは「このワクチン、アメリカ製ですか?」なんてタイプの人種ですから(笑)。めちゃくちゃ凝ってつくるのに、自分では着なかったですね。そういう意味では本当にアウェイでしたよ。ずっとお店をやろうと思っていたから、お金を節約するためにみんなと飲みに行くこともなかったし、連休のたびにニューヨークまで仕入れに行ってたし。まあ、結局自分はインポートの人だったんでしょうね。
――じゃあ、ビギに在籍した2年間はあまりいい思い出ではなかった?
中曽根 いや、お金をもらいながら本当にいい勉強をさせてもらいましたよ。ぼくなんてデザイン画も描けないから、家から古着を持ってきて「この生地をカラーのカツラギに替えてコーデュロイ付けたらカワイくないですか?」なんて実践的なやり方でしたが。でも、当時はそういうものづくりは誰もしていなかったですからね。


――まだDCブランドの世界では、ヴィンテージをベースとしたデザインは主流ではなかったんですね。
中曽根 だからあんな巨大な肩パッドが生まれたんでしょうね(笑)。なのでぼくがビギを辞めた後は、「ラブラドールレトリバー」の仕入れをしながら、ネクタイや生地の見本を台紙に貼って、ほかのブランドに売るような仕事もしていたんですが、ビギにも買ってもらいましたよ。だから辞めた後もお付き合いはあったんです。
――中曽根さんはDCブランドのカルチャーにインポートアメカジのエッセンスを加えた、最初の人だったというわけですね!
次回へ続く!
中曽根信一
1957年長野県生まれ。1977年からアメカジセレクトショップの名店「バックドロップ」で勤務。1986年に退社し「ビギ」で働くも、1988年に退社し「ラブラドールレトリバー」を創業。渋谷〜原宿エリアを拠点とした日本独自のアメカジ文化を築き上げると同時に、日本人のライフスタイルそのものに大きな影響をもたらした。