ぼくのパパス、
わたしのノンノン。

VOL.17 
松浦弥太郎、湘南へ。
パパスの文化を
つくった
憧れの人との対話

このWebマガジンを通して、長年にわたる〝パパス愛〟を明かしてくれた、エッセイストの松浦弥太郎さん。今日はパパスのロゴだけにとどまらず、このブランドを取り巻く文化そのものをつくったキーパーソンである、デザイナーの塚野丞次さんが暮らす湘南に来てくれました。築100年の古民家で夜更けまで繰り広げられた会話の一部を、ちょっとだけ皆さんにもお届けします。

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塚野丞次さんとの邂逅

塚野丞次さんは1936年生まれ。パパスのカタログやパパスブックの制作を一手に手がけるデザイン会社ビービーの代表であり、広告界の大物です。パパスというブランドの誕生に大きく関わり、そのロゴをつくった人物としても知られています。

松浦 今日はどうしても、憧れの塚野さんにお会いしたくて来ちゃいました。

塚野 いやいや、こんなあばら屋まで恐縮です(笑)。

松浦 すごいなあ。ここは何年くらいになるんですか?

塚野 8年か9年ですかね。もともと親の住まいで普通の家だったんですが、藝大の建築の連中に寄ってたかって2年間好き勝手やられちゃって(笑)。

松浦 それは楽しそうですね(笑)。

塚野 ここで寝袋にくるまって合宿しながらつくってたんだから(笑)。

松浦 しかし、冬はどうですか?

塚野 ・・・寒い(笑)。夏は蒸し暑いし。

松浦 でも、今日は風が入って来て気持ちいいですね。

塚野さんの住まいは、ご両親が遺した湘南の築100年を超える古民家をリノベーションしたもの。その虚飾のない佇まいは、パパスというブランドのあり方ともリンクします。

あの頃の六本木

塚野さんが着ているセーターは、スコットランドのジャーミソンズへの別注品。

  • TELニット¥117,700

  • PAPAS COMPANY TEL03-5469-7860 

松浦 塚野さんは湘南に越される前は、どちらにお住まいだったんですか?

塚野 ずっと六本木に住んでいました。昔の六本木のことを知っているの、もうぼくくらいしかいないですよ。

松浦 当時の業界の皆さんはどうして六本木に集まったんですかね?

塚野 当時の六本木っていうのは、租界っぽかったんですよ。上海あたりの外国人居留地というか。

松浦 外国っぽかった?

塚野 旧防衛庁のあたり(※)は米軍将校の宿舎だったから、外国人が多かったんです。そして赤坂が生バンドやホステスさんがいる大きなナイトクラブが多かったのに対して、六本木はホステスさんがいない小さなお店が多くて、朝方までやっていた。外国人はそういうお店に好んで出入りしていたから、なんとなくバタ臭かったんでしょうね。メインカルチャーはモダンジャズでした。

(※)現在の東京ミッドタウン周辺。もともとは陸軍の駐屯地だったが、終戦後は米軍将校の宿舎に使われ、1962年から2000年まで防衛庁の本庁舎が設置されていた。

松浦 ぼくはその頃の六本木は知りませんが、若い頃は5丁目交差点の角にあった「ハンバーガー・イン」(※)によく行ってました。ギリギリ間に合ったというか・・・。

(※)1950年にオープンした日本初のハンバーガーショップ。

塚野 「ハンバーガー・イン」はもともと飯倉片町にあったんですが、のちに六本木に移転したんですよね。

松浦 塚野さんが六本木にいた頃、行きつけのお店ってあったんですか?

塚野 若い頃はお金がなかったからうろちょろしてるだけで、お店なんて入れないですよ。

松浦 わかります。僕もニューヨークやパリでそうでした。それだけで楽しかったですよね。

塚野 うん、なんでかわかりませんが・・・。

パパスブックと佐伯誠さん

松浦 ぼく、若い頃からずっとパパスブックを読ませていただいているんです。

塚野 いやあ、あんなものど素人がつくってますんでね(笑)。もう本当に恥ずかしいですよ。松浦さんのことは佐伯誠さん(※)からよくお聞きするんですよ。若い頃、移動書店のようなことをおやりになっていたと。

※1945年生まれのエディター、ライター。ファッションからアート、文学に至るまで20世紀を象徴するカルチャーを股にかけ活動する。パパスブックにも長年関わり続けている。

松浦 ぼくは若い頃、風来坊のようにアメリカを旅していたんですが、帰国後にちょこっと書いていた文章を佐伯さんが見つけてくださいました。手紙をくれて、文通するようになって、当時ご執筆されていた『翼の王国』に引き入れて、少しばかり連載をもたせてくれたんです。だからぼくが文章を書いたり編集の仕事をするようになったのは、佐伯さんがきっかけです。佐伯さんがいなければ今のぼくはいません。本当に恩人ですね。

塚野 当時はメールなんてなかったですからね。佐伯さんは昔から手紙魔で、いつも手紙をくれるんですよ。多いときは1日2回届くんだから(笑)。

松浦 佐伯さんからいただいた手紙の分厚い束は、今でも持っています(笑)。

塚野 パパスの本は最初はプロに頼んでいたんですが、荒牧太郎というとんでもないデザイナーがいましてね・・・(笑)。

松浦 最初の頃から知っていますが、途中から内容が変わりますよね。

塚野 そう、みんな荒牧さんとケンカしてやめちゃうんですよ。それでぼくがやるしか仕方なくなったというわけです。

松浦 でも雑誌って、そういうワンマンな人がないと面白くならないんですよね。ぼく、パパスブックが本屋さんで売っていたときも買ってましたから。

塚野 ありがたい話ですねえ。それでぼくがやるにあたって佐伯さんに助けてもらったんです。3つくらいのペンネームを使い分けて、10年くらいはほとんどの文章を書いてもらいました。だって全部佐伯誠じゃなんか格好悪いじゃないですか。

松浦 そうなんですか! 確かにぼくも読みながら、この方は誰だろう?って不思議に思っていました(笑)。でも、確かにパパスブックの自由さに溢れた、洒脱で詩的な文章は佐伯さん特有のものですよね。

塚野 今ではこういう文章もまわりくどいというか、気取ってるなんて言われちゃいそうですがね。

松浦 文章って、味わうように深読みしないといけませんからね。

塚野 今回の号に寄稿してくれた河毛俊作さんからお手紙をいただいたんですが、今どきこんな本をつくっているのは奇跡らしいですよ(笑)。

松浦 本がつくりづらい時代になってきました。そんななかで捨てられないものをつくっておられるから、素晴らしいですよ。

パパスが生まれる前

何十年にわたって着込んだ、パパスのポロシャツを着て来てくれた松浦さん。

  • BUYシャツ¥48,400

PAPAS COMPANY TEL 03-5469-7860

松浦 塚野さんがパパスやノンノンに関わり始めたのはいつ頃なんですか?

塚野 マドモアゼルノンノンができたときだから、いつだろう・・・。えっ、60年前?  じゃあその頃だ(笑)。当時ぼくはフリーというかフーテンだったんですが、写真家の立木義浩さんのアシスタントみたいなことをやっていて、彼が所属していた広告会社のアドセンターによく出入りしていました。そこにいた「フーチ」って呼ばれる人が会社をやめて、太郎さんと一緒にマドモアゼルノンノンを原宿にオープンしたんです。そのとき太郎さんはパリにいて、オープンに合わせて帰ってくるという話だったんですが、全然帰ってこないの(笑)。それでぼくがフーチに頼まれて、1週間くらい店番をやっていたんです。

松浦 最初の頃は誰が服をつくっていたんですか?

塚野 最初はフーチがつくっていたのかな。それから太郎さんが帰って来て、つくり始めたんです。だからオープン当初は、商品なんてTシャツくらいしかなかったんですよね。

松浦 でも、当時から人気はあったんじゃないですか?

塚野 個性的だったから、知ってる人は贔屓にしてくれました。だから結構売れましたね。

松浦 その頃の原宿って、今とは全然違いましたよね?

塚野 洋服のお店なんてノンノンのお店しかなかったですよね。ぼくはそれほど行ってませんが、業界の連中はレオンという喫茶店にみんな屯していました。

松浦 確かにぼくが子供の頃、お店はポツポツとあるくらいでしたね。レオンはぼくもギリギリ知っている世代ですが、すごく入りにくかったです(笑)。キディランドの隣にカフェドロペもあって、そっちはお客さんが外国人モデルばかりだったから、興味本位で行ったことがあります。1980年代後半になると、パパスのお店が同潤会アパートの二階にできましたが、最初はあまり知られてなかったですよね?

塚野 しばらくは売れなかったんじゃないですか? 「自分たちが着たい服をつくろうぜ」みたいな感じだったから。こんな大きいブランドになるなんて思わなかった。半分お遊びみたいなもので。それが許された時代なんですよね。

松浦 いい時代だったんでしょうね。ある時代を一緒に過ごした人たちのつながりによって育てられたというか。

パパス誕生秘話

松浦 パパスのロゴは、塚野さんがサッと書かれたんですか? それとも色々試行錯誤されたんですか?

塚野 いやいや、最初はブランドを始めるにあたって、〝ヘミングウェイが着そうな服〟ということで、「ヘミング」なんていうネーミングになりそうだったんですよ。でも、ぼくはさすがにそれじゃストレートすぎるなって。それでぼくが、パパ・ヘミングウェイから取ったネーミング案を荒牧さんにふたつ提案したんです。それが「パパーノ」と「パパス」でした。そしたら「これでいいよ」と、すぐにパパスに決まっちゃった。

松浦 そのときにパッと書いたやつが、今のロゴというわけですか?

塚野 そうそう。サインペンで書いたちっちゃい字だったんだけど、それをコピー機で伸ばしたら結構いい感じになったものだから。

松浦 それが今でも使われているって、すごいですね・・・。塚野さん、今日はぼくのパパスブックにサインをもらってもいいですか?

塚野 いやあ、そんなのおこがましいですよ(笑)。

松浦 では、PAPASの文字を書いてください。

松浦さんが所有するパパスブックに、サインを入れる塚野さん。この力の抜けた筆跡が、パパスというブランドのテイストを決定付けたのです。

塚野 それでは、一応。

松浦 ありがとうございます! PAPASロゴを直筆でいただけるとは、感激です。

塚野 今日はうちの妻が芋煮をつくりましたので、食べていってください。田舎料理だから、お口に合うかどうか。

塚野さんの奥様がていねいにこしらえてくださった、山形名物の芋煮。その滋味に身も心もあたためられながら、松浦さんと塚野さんの対話は夜更けまで続くのでした。

松浦弥太郎

1965年東京生まれ。高校中退後、渡米を繰り返すなかでアメリカの書店文化に惹かれ、1996年にトラックを改造した書店「エムアンドカンパニーブックセラーズ」を開業。さらに2003年には今も中目黒にある書店「COW BOOKS」を開業する。エッセイストとして多数の著書を発表するほか、『暮しの手帖』の編集長を9年間務めるなど、編集者しての顔ももつ。現在は『DEAN&DELUCA MAGAZINE』の編集長のほか、企業のアドバイザー、オリジナルレシピの開発など、幅広い分野で活躍している。近著に『松浦弥太郎のきほん』(扶桑社)などがある。